そもそも、

あの巨大な赤ん坊は、

 

湯婆婆が産んだの?

 

 

 

 

油屋と私。
 

 

 

 


 
「これに名前を書きな」

 

 

へろへろになった湯婆婆から何かの皮から作ったような契約書が文字通り、飛んできた。

 


「ぅゎっ」

 

 

年甲斐もなく興奮してしまったじゃないか。

万年筆を苦戦しながら使い、荻野千尋、とまだ書き慣れない名前を書く。

 

 


「ふんっ!」

 

 


不貞腐れた、なんて可愛いものではないが、老婆の手元へまた契約書が飛んでいく。

どうせならハリポタの方が楽しかっ、否、気のせいだ。死にたくない。

 

 


「荻野千尋、贅沢だねぇ!・・・・ぅんん?」

 

 


そのまま、行くと思った。

その、映画のまま。

暖炉からの明かりが湯婆婆の影を大きく揺らす。

 

 


「アンタ、名前がもうひとつ、あるね?」

 

 

確かに私は子どもで、

例え働いた記憶があると言っても、

自分の手の内で何とかなると高をくくっていた餓鬼だったのだ。

 

 


「生意気だねぇ・・・・真名を隠すか、この湯婆婆様にっ!!」

 

 

にやりと湯婆婆の口が裂けるように歪む。

 

 


「つっっ!!」

 

 


突如、胸への喪失感。

焦燥感。

戸惑いと恐怖。

それは突然名も知らぬ場所に放り出されたように。

 

 


初めて場所、

初めての人、

初めての事柄、

初めての世界、

それはそう、

 

 


誕生に似ている。

 

 


「かえっせ!!」

 

 


キラキラとひかりながら飛んでゆく、昔の名。

すがるように手を伸ばすが、届かない。

私の名前は胸糞悪くにやにやと笑う老婆の元へ。

 

 


「ほう・・・・なるほど、これがアンタの一番大切な物ってことかい?」

「返せ!!それは私の名前だっ!!」

 

 


ずだんっ!!

大きな仕事机に掴みかかり鼻面を睨み付ける。

 

 


「名前は荻野千尋で十分だろうっ!!」

「偽名は良くないねぇ」

 

 


底意地の悪い猫なで声が私を撫でる。

叩き付けた拳が痛い。

 

 


「偽名じゃない!今は千尋だ!!」

「なるほど、前にすがって生きてるわけかい。そりゃ成長もするまいね、心も体も」

 

 


余計なお世話だ!と吐き捨てる前に奴の鼻息で壁に叩き付けられる。

 

 


「そんなに、この名が、大切かぃ?豚にされた両親よりも、」

 

 


湯婆婆の目が怪しく光る。

私は迷うことなく口を開いた。

 

 


「あた」

「いかがなされました、湯婆婆様」

 

 


聞き覚えのある声に、はっとした。

私は今、何を言うつもりだった?

自分の名前欲しさに両親を見殺しにするところだったのではないか?

唇を噛みしめ、顔からは血の気が引いていく音がする。

 

 


「チッ!良いところで。覗いていたんじゃあるまいね?」

「滅相もございません」

 

 


チッ!と声高にもう一度舌を打つと湯婆婆は既に興味無さげに私を見た。

 

 


「ハク!この娘を湯殿で下働きでもさせな!名前は千だよ!」

「畏まりました」

 

 


こんなに口惜しい事が今まであっただろうか。

否、この十年悔しい事だらけだ。

体は自由に動かず、全てをもう一度やり直し。

毎日の生活、勉強、本当にやりたい事は見付からぬまま露と消え、何故私は生まれて生きているのか。

 

 


「さあ、行くぞ」

 

 


他人行儀に私を連れ出すハクなぞどうでもいい。

何とかこのババアに一泡吹かしてやりたい。

沸々と湧き出る怒りを止められない。

ガキ?上等だ。

思い通り生きてくれるわ。

扉までハクに引きずられ歩くと、ぱっと後ろを振り返る。

ぐるりと見渡し、大きく空いた穴を見つけ、にやりと笑う。

 

 


思い出した腹式呼吸。

嫌々最近やった応援団の構え。

 

 

「ゆばーばさま!!どうもおせわになりました!!!きょーからよろしくおねがいしまぁーすぅうう!!!!」

 

 

ダッシュで逃げた後から湯婆婆の怒鳴り声と赤ん坊の泣き声。

それでもって、

 

 

「ざまーみろー!!」

 

 

私は大声で叫んだ。
 

 

 

  

 

 

 

拍手採録。
もう恋愛色はどこかに消えていきました・・・・
いつものことです。
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